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働くという感覚がなくなりつつある

 

この数年、いろんなことがあった。

 

別に目指していたわけではないが、

 

働くという感覚からようやく解放されつつあることに気づく。

 

自分自身の価値観もだいぶ変わった。

 

試行を重ねることで、目標に到達するというより、

 

価値観や重視すべきものが変わった。

 

自分が変わった。

 

 

資本主義でお金を持つことの強さを強調されたコンテンツを見ることが多かったし、実際そうだとも思った。

 

危機感から、資本を得ることを最優先した時期もあった。

 

その時期の中での経験や、

 

試行を重ねることで、資産が増えたことも相まったのかもしれないが、

 

自分のためだけに目先の金銭的な利益を追うよりも、

 

コミュニティの為の活動や経験を得たりすること、

 

健康的に長く続けられる活動をすることの方が

 

如何に人生が多彩になるかを知ることができた。

 

お金が一面にある世界とその先に娯楽があったとして、

 

それが如何に無味無臭で大したことがないか、

 

際限の無い発散が如何に自分を不安にさせるか、

 

知ることができた。

 

自分だけの世代に限定した範囲で、物事を考えてはいけない視点も得ることができた。

 

働くということと、お金を稼ぐということは密接な関係にある。

 

しかし、逆にお金のことを忘れれば忘れる程、

 

人生が豊かに、楽しい感覚に夢中になれた気がする。

 

自分の集中したい感覚に身を任せられる気がする。

 

目の前の人や目の前の付き合い、

 

目の前の患者を大切にできる気がする。

 

その結果、逆に好転したことも多かった。

 

変に力まない方が、うまくいくことが多かった。

 

最近の僕は非常に落ち着いているのだけど、

 

お金のことを忘れると人生が豊かになったような「感覚になる」のは何でだろうか?

 

それは、ビジネスとは、お金を稼ぐということは、

 

試行において方向性、ベクトルが決まっているからだと思う。

 

簡単なことではないのだけれど、ある意味で非常に単純なのである。

 

単純すぎて、仕事以外のその他のことで養われる緻密な感覚や出来事に鈍感になるのである。

 

ビジネスを優先したいが為に、見ないようにしているとも言えるのかもしれない。

 

そうなると、考え方がビジネス一辺倒になる。

 

本当は伝えたいことがあっても、ビジネス思考でマスクされ言えなくなる。

 

そういった事態は、残念ながら不自然なのである。

 

人生で見舞われる様々な感覚や視界に映るもの、それらを無視してビジネスに、お金稼ぎに傾倒する、

 

それははっきり言って簡単だ。

 

でも、それをすると自分か自分じゃない世代か

 

確かに何かを失うのである。

 

そんなことをしなければ人が傷つく必要がなくなるのなら、

 

そんなことをする必要は本来ない。

 

稼ぐことに夢中になる時間は、

 

言い換えればお金に無心するような時間は、

 

少なければ少ない方が良い、

 

というより、何か大切なものを犠牲にまでする必要はないと僕は確信した。

 

一方で、面倒なことに人生はお金がなさすぎてもベクトルがなくても混乱してしまうのである。

 

だから、それらに無頓着なことが必ずしもいいわけではないこともわかる。

 

大事なことは、何かをしようと山を登るときに、

 

そのペースの調整なんだと思う。

 

急勾配に何かを得ようと力みすぎている時、大体よくわからない歪みができるからである。

 

何事も少しずつで、それは絶妙な感覚が要る。

 

周り全体を気遣いながら、ゆっくり進むのが誰も傷つかない。

 

他から見れば、最短の成果を出すルートを歩いていないように見えても、

 

超長期スパンで考えた時、話しは変わってくるのである。

 

なんなら自分だけの代で完結するような目標を掲げるのでなく、

 

次の代などでやってくれればいいぐらいの余裕を持った方が、

 

より焦る必要はなくなるし、

 

逆により大きなことができるのかもしれない。

 

たくさんの試行をしたし、

 

「辞める」という試行も少なくなかった。

 

今、こういったことを考えることができてよかった。

 

人生って面白いな。

 

まだまだ腐らずに試行を重ねていく。

 

 

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