長期投資と財源の圧迫について一考してみる。
僕は学生時代から投資の概念に触れ実践はしていたのだが、ここ数年はより投資的な観念に基づいて考えて行動していた。
だいたいの行動は、投資的な行動と消耗的な行動に分けられるというのが最近固まってきた持論だ。
ただ長年投資をしながらその重要性を知る一方で、先のことばかりを見据えて今やりたいことや面白いことについて出し惜しみしているのだとしたら、
それはきっと後悔してしまうんだろうな、とも最近は感じる。
「将来これぐらいあったら安心!」
というの追い求めていたらキリがないのだ。
そして投資によって、現行の、現行でしか成し得ない機会を損失しているのならそれは果たして投資と言えるのだろうか?何のための投資なのか?という少し逆説的な話だ。
そう考えると、長期投資というものの意義とはなんなんだろう?
長期投資で重要なのは元金と継続性だと思う。
その元金の中でも経過の中で初期の方で価値のウエイトが増すことは数年前理解した。
初期ほど、かつ、その額が多い程複利効果は増加するからである。
しかし、超長期的に投資をするというのは、そもそも実世界に動かさない資金が長期的に存在することを意味する。
それは単に据え置いている貯蓄と比べ、何が良いのだろうか?
最終的な額は増えるだろう。しかし、その間固定され他に活かすことができないとしたら。
高齢になった際、唯単純に貯蓄したケースと複利によって増加させるケース、そのどちらだとしてもその額の振り分けや意味を若い段階でどう想定するか、どう見出すかなどはなかなか困難な話だ。
固定している間何にも活かせず、増えた結果どう扱うか検討もつかないのだとしたら、それは「運用している」と言えるのだろうか?
結果的な数値だけを見るのでなく、その数値に将来的に感じるだろう意義を検討すると、長期投資というのは儚い存在にも感じてしまうのである。
まあ、きっと財源の分配する割合も絡むのだろうと思う。
流石に最低限のライフラインの備えがないというものはまずい。
けれども、それが今回せる資金の中で大きな割合を示しているんだしたら〜例えば今の行動が制限されているほど〜
非常にナンセンスであるということだ(あくまで自分にとってだが…)
広告やどこらかしかで最終的な結果や貯まった額を表明しているのを見かける時がある。
しかし、上述の通り考えると、実のところその最終値自体にそこまで意味はないのかも知れない。
それがその人の財源の中で何%で運用していたのか、そして、それ以外で運用していたもので、どれだけ人生を充実させることができていたのか。
そういった背景の方がはるかに重要だと考える。
投資する姿勢は大事だが、それ以上に「今実現したいこと」にフォーカスを当てそれを大きくしていく姿勢も大事なんだろう。
一時的にお金は無くなることは確かに怖く感じる時がある。
しかし、今を必死に生きて未来に生かす、そういった姿勢そのものがある意味本当の投資なのかも知れない。