今年ももう師走。
最後の最後にどんでん返しを起こしてしまったが、致し方なかったように思う。
最近になって漸く、12月が師走と呼ばれている感覚が定着してきた。
何もかにも目まぐるしい。というか、僕自身の問題だけでなく、組織が忙しい。
人事,そして、回される側がそれぞれに勝手気ままな意見を述べており(自分も含む)、
明らかに上司がピリついているのがわかる。
以前はこういった、組織というもののが全く見えていなかったな。
昨年度は技能的なことの定着、今年は組織というものについて直面し、
考えさせられ学んだように思う。
様々渡り歩き、そして、様々わたり歩いてきた人や長らく組織に勤め生きてきた人と
交流し生き方を比較し思考してきた僕であるが、
やはり「所属する組織のサイズ感」というのもはとても重要であるように思う。
これに加えて、組織のカラーや特性、かな。
自分が何ができようその人がいかに優れていようが、
結局は医者というのは非雇用者でありサラリーマンであり、組織の為に動いている。
以前の僕は「診療内容が患者が治療が」と医者という暮らしの一部しか見えていなかった。
最近はより包括的に捉えることが少しできるようなったのだと思う。
それはさておき、タイトルの享楽というものについて最近よく考える。
割と僕は享楽主義者というか、自分なりの享楽に沿って生きてきたのだが、
読書やジム通いを継続することによって、そして、様々な娯楽を体験してきたによって享楽には2種類に分けられることをわりかし確信している。
それは、能動的な享楽か、受動的な享楽かという話である。
受動的な享楽は身近なところで言うと、YouTube視聴、SNSの視聴など、待っているだけで「対象が与えてくれるもの」である。
挙げようと思えばたくさんある。というか、現代において割合はは受動的快楽の方がはるかに多いんじゃないかと思う。
これらは人生の時間の消耗と考えると有害とさえ思えるほど、大して実りがない。
一方で、能動的享楽である。
これは一見享楽とは思えないのだが、その苦痛や大変さの中に長く続く快感があるのである。
もう述べてしまったが、「能動的に」享楽を享受するとは、なんらかの苦痛や努力が伴った上での享楽である。
例えば、何かを表現する為に技能を身につけたり、ジムに行って体を鍛えることであったり、読書をすることによって想像力を絶えず刺激することであったり、コミュニケーション能力を磨いて仕事に生かしたり…とそんなことである。
面白いのは快楽自体を最初から狙っているわけではないことである、パラドックスである。
だから一見すると、「それ面白いの?」と言われるようなことかもしれない。
でも、続けているとその快感がより明瞭になってくる。
長距離ランナーの「ランナーズハイ」とも似ているのかもしれない。
こちらの享楽は奮起する気持ちと継続性が揃っていないといけない為、結果的に何か実っていることが多い。
で、様々経験してきた上で思うけれども、何か目標を立てる時(いや、普通に生きていく時でさえも)
どちらの享楽の割合に寄っていく可能性が高いのか、自分の思想はそもそもどっち寄りなのか、どっちに寄りやすい人間なのかということをよく認識しておいた方がいいんじゃないかと思うのである。
なぜか。
それは、受動的に享楽ばかりに支配されると不健康になりがちだからである。
そりゃそうだ、努力ができない,耐えることができない、技能も身につかない人間になるんだもの。
それどころか、何かしらの依存症や生活習慣病になって体はボロボロになっていく。
ただ、現代の恐ろしいところはこういった受動的快楽に生活が満ちていることである。
この歳になって徐々に徐々に自覚してきたが、僕はどちらかというと受動的快楽のスパイラルの陥りやすい側の人間である。
僕が幼い頃、ゲームやインターネットが爆発的に普及した。
それによって、受動的快楽に晒されまくっていた環境であったとも言える。
学生時代が終わり社会に出て、試験や仕事の大変さを乗り越えて一通り食っていけるようになって、
ある意味で「落ち着いた」状況になってみて、自分の幼少期に形成された気質は、受動的快楽を求める姿勢を多分に含んでいると自覚せざる得ない。
ただ、それが誤っていたと教えてくれたのは、怠惰な生活から抜け出そうとして始めたジム通いの習慣であった。
ジム通いは今や完全に生活の一部となり、なんなら「人生のペースメーカー」的役割を果たしている。
もともと体を動かすのは好きな方ではあったが、能動的な姿勢や習慣がじわりじわりと多くのことを僕にもたらしてくれた。
良い習慣は良いスパイラルを生み出すと日々実感し、
継続している自分にもジムを提供している会社にも感謝の念しかない。
何度も書いているが、現代は受動的快楽を提供するサービスに溢れている。
気を抜くと、そちらに傾倒していくような環境なのである。
金がかかったものでさえも関係ない。
どんな高級車も高価なものも、そこに受動的享楽を追い求めていった先のものならば、ただの車、ただの家、石、飯であり一瞬の快楽と虚しい気持ちしか残ろないだろう。
最終的に見据えるもの、追い求めていくものをそういった類に設定せず、
ブレずに周囲に良い影響を与えるものでありたい。
その為には今ある良習慣を継続し、より取り入れていくべきであろう。
こういったことを包括した上で、今年の反省と来年以降の抱負としていきたいものである。