学習効率、神経回路、意識の覚醒度
これらの関係性を個人的な見解で
適当に語ったりしていきます。
※当ブログは只のブログであるため、非医学的表現も無論含みます。
細かいことはご了承ください。
めんどくさがりの延長線
なぜこんな話になるかというと
僕は根本的には自由を愛するので
拘束されること、
とりわけ時間的拘束を
あまり好まないことに関係します。
あることを習熟する時に
「必ずある期間を要する」ような設定項目が
あるじゃないですか。
ああいうのがあんまり好きではないのですね。
なので時間的拘束嫌いが一周して
「逆に楽に理解が進む方法はないかなあ」
と習熟速度の効率化というものを
たまにぼんやりと考えたりするわけです。
思いついたのは神経回路
何かを習熟しようとした際に
必要なことは
一定の経験数を積むこと
一定の経験期間を経ること
あたりが一般的。
その中で、
理解効率・速度を上げる要素は
ないものだろうかと模索すると
そもそも記憶形成や技能習得は
ミクロな視点で考えると
脳神経回路の形成と
関係があるように思えます。
なので、神経回路内の
電気活動になぞらえて
物事を理解するのが
合理的なのかもなあと感じるわけですね。
何かを理解をする際に
分散された要素を単体で脳内に入れるだけでは
結びつきが弱い。
取り出しづらくなるし、
取り出した後の応用も効きづらい印象がある。
なので
学習する要素を頭の中に入れていじくる時
要素同士の連合を脳内で意識すると
文献を読む際など
漫然と情報を目から取り入れるより
効果的なのかもしれない。
個人的な話、医学書とか読んでいると
流し見をやっちゃうこともあるんですが
これあんまりやっちゃいけないなあと
感じます。
というのも、流し見って結局なんなのかというと
要素を一つずつ
脳内に想起しているけども
その相互の連絡が形成されていない
状態だからですね。
まぁ後で思い返したりする際に
要素同士がつながったりするから
時間のベクトルを加えると
一概には意味がないとは言えないけども
ちゃんと習熟する際には
要素同士が結びつくように頭を回転させると
サクサク理解が進むのかも知れません。
一つの「1」という事象を見たときに
「1」としてみるだけでなく
「1」⇔ 「1’」
「1」=「0.1」+...「0.1」
というように。
学習効率と覚醒度
学習効率を考えた際に同時に必要性を感じるのが
意識や脳の覚醒度です。
僕は過眠症寄りの人間なので
わりと覚醒度が頻繁に下がることに
苦しめられていました笑
学生時代は
日中活動している時に
本当に頭が冴えている時って多分
合計で数十分ぐらいしかなかった気がします。
なので、記憶形成に覚醒度が
どの程度重要か
経験があるのですね。
「頭を使うことは朝にやれ」とよく言われていますし
神経回路の結びつきも
ベースの覚醒度に影響を受けるような気がします。
ということで
「覚醒度が高い時に学習をする」
という当たり前のことも学習効率に必要そう。
一方で、
疲弊度が低い状況
⇔疲弊度が高い状況
と別角度から切り込んでみると
疲弊度が高い状況だとしても
神経回路の結びつきが
強くなる場合があるように思います。
睡眠不足などで
身体的にひどく疲弊した状況下で
決断や行動を迫られた際などです。
なので、神経回路の形成は
覚醒度だけの単純な問題でもないのかもしれません。
学習効率とドーパミン
他にも学習内容に触れた際に
知的好奇心をくすぐられるか?
ドーパミンが出ているか?
こういったあたりも関係がありそうです。
「面白いなあ」と感じたものは
やはり頭に残るものです。
頭に残ったものは
相互に連絡を作っていく印象があります。
「最初から興味がない」と
シャッターを下ろしてしまうと
逆に知的好奇心をくすぐる機会を
自ら失ってしまうことになります。
「おもしろいんじゃないかな?」
と
門を開くスタンスをもって
知的好奇心を刺激したり
ドーパミン分泌を刺激したり
するのももしかしたら
学習効率には関係するのかもしれませんね。
まとめ
理解速度を上げたいなら
物事の要素単体で見るのでなく関係や内部構成を意識しよう
ある程度の覚醒度を保とう
知的好奇心やドーパミンを意識しよう
神経回路の結合を妨げるような環境は避けよう
そうすれば、
もしかしたらもしかすると
理解速度が上がるかも知れない(架空)
おわり。