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医者と特異性Specificity、AIなんかも交えて

 

そうね、せっかく医者をやるんなら特異度が高いことをやりたいよね。

 

え?なんで英語で特異性を書いたのかって?

 

かっこいいからだよ、なんとなく。

 

Specificity!

 

さておき、ずっとモヤモヤしていたのはこれなのである。

 

 

特異度が高いことが経験できるのであれば、なんだっていい。

 

特異度が低いことばかりなら、他の一般の人でもできそうな行為なら、なんのためにわざわざ時間を多くかけて医者をやっているの。

 

そう感じ始めていたからだ。

 

僕は物事を分解して考えたり、本質について考えることを頻繁にする。

 

診療を分解すると、内科的なことはAIは行えるようになっていくとして、検査・手技的なところはコメディカルも担当できる。

 

トレッドミル検査や呼吸機能検査、各種の検査はわざわざ医者がやることではない。

 

分業に則った考え方だ。

 

そしてその細分化が進み、それぞれのエキスパートがいる。

 

あれ?そうなると医者の特異性って何?

 

改めて医者ってなんなんだろう。

 

医者と特異度の高い行動について少し考える時が来た(ようなきがする・・)。

 

 

手術や救命〜カテーテルなど〜というのは真っ先に特異度が高い行動であると思いつく。

 

研究なんかもそうね。

 

 

一方では、臨床麻酔に関してはコメディカルが部分的に担当できる幅が広くなってきた。

 

 

一つ一つの手技や術中のショートスパンの経過観察なんかはそうだと思う。

 

 

Alineなんかもエコーを使ってもはや看護師さんが取ったりする。

 

 

挿管だって彼らは練習すればできてしまうだろう。

 

 

じゃあ、彼らは先を見据えると将来的に”麻酔科”に近しい存在になれる可能性を秘めているのであろうか。

 

そうではなさそうに感じる。

 

それは、彼らには医者側の経験に基づく総合的な知識が担保されているかというところが関わりそうだ。
(彼らと張り合っているわけではございませぬよ)

 

 

総合した知識。

 

 

一言では言い表すことができない、使用薬の経験やそこからの変化の推測。

 

「だいたい」はできるかも知れない。

 

でも、「だいたい」ではいけない瞬間がいつか来る。

 

医者としての特異性というのは、一つ一つの操作へのフォーカスやそこへの評価というよりも、

 

総合した経験があるかないか、そしてその評価に基くコーディネートができるかどうかという、

 

なんとも漠然とした捉えどころがないところが、大きな要素だと考える。

 

 

そう考えると、「手術」という内容に関してはどうか?

 

 

手術に関しては、やはり医者にしかできない操作だと一見感じる。感じてきた。

 

どの仕事からも、どんなコメディカルからも侵食され得ない、絶対不可侵な領域であると感じてきた。

 

ただ、これも冷静に分解してみると、カメラ持ちや一つ一つの吻合〜あくまで簡単な範囲だが〜は看護師さんらやコメディカルも練習し、推測能力を駆使し磨けばできてしまうだろう。

 

完璧なマニュアルがあり、pitfallを明らかにし、ひとつ一つの動作にどんな意図があるのか理解させ猛練習すればこなせてしまうだろう。

 

非常にぶっちゃけた話だが、寿司職人を何年もかけてやる必要がある?という話にも通じるところがある。

 

でも、あくまでそれまでだ。

 

その中で培った以上の範疇までしか能力は発揮されない。

 

あくまでその操作の範囲内にしか、コーディネートができないだろう。

 

それは、「全体を踏まえたコーディネートの経験」がないからである。

 

麻酔にせよ、手術にせよ、簡単なものなら確かにコメディカルでもできる。

 

「ちょっと学べばできてしまうじゃないの」そう思ってしまう瞬間はある。

 

しかし、それが事実だとして、医者の特異性はどうなのか?というのは、また別な気がする。

 

何回も同じこと繰り返している気がするが

 

医者の特異性とは、部分部分の単発の動作や知識の行使が”可能かどうか”というか、という単純なところではない。

 

手術をして病変部位を取ってくることが可能か。

 

硬膜外麻酔の実施が可能か。

 

こういった“通過できなければ、話にならない”という“わかりやすい”ところばかりに医者のかっこよさとしてフォーカスが当たりがちだ。

 

だけれども“包括した経験”こそが、医者の特異性を上げるのかもしれない。

 

 

だからこそ、簡単な問題ばかりに取り組み続けることは、これは医者の特異性を下げてしまうような気もする。

 

それは、もったいない話だ。

 

とはいえー・・・何をもって仕事を”簡単”と表現するかにも関わってくるのだが。

 

症例はプログラミングのように単純でない。なかった。
(プログラマーの皆さんすみません)

 

いずれの操作にも、その症例ごとの反応があり、それは生体である為、多彩である。

 

扱っている基本的構成は似ているようが、プロパティが少しづつ違う。

 

僕は一つの分野しか実践したことがないが、各分野でそれぞれの症例ごとに学べることがあるのは容易に想像できる。

 

そういった反応に対する感度を非常に低くすれば、”簡単”と表現することはそれこそ簡単だ。

 

長期的にどうかなんてカンケーない、この場が通過できればいいのだからー・・・

 

そう考えると、わりとなんでもアリになってしまう。

 

上述の“通過可能か不可能か”という内容、大体が可能になるだろう。

 

要するに、自分の中の満点をどこにもっていくかで、簡単かどうかというのは全然変わってくる。

 

それによって、経験から1を学ぶのか。10を学ぶのか。100を学ぶのか。

 

それも変わってくる。

 

あんまり”鈍”な操作が許容できてしまう症例ばかりだと、”簡単”と表現したくなる気持ちもわからなくもないが・・・。

 

そういった、症例ばかりを選び続けたりそう言った環境ばかりにいると、医者としての特異性は下がるのかもしれない。

 

要は姿勢の問題か。

 

 

AI

 

AIはどうだろう?

 

”鈍”な内科管理には適任、打ってつけそうに”見える”。

 

麻酔管理も”鈍”にいくのであれば、できるのかもしれない。

 

AIはショートスパンでのプロトコルの即座な行使には優れているだろう。

 

人間がわざわざ覚えずに、ボタンひとつで手軽かつ確かにプロトコルを使用することができるだろう。

 

だが、上述した、トータルコーディネートの経験とそこから導き出される予測能力は乏しいと言える。

 

重症症例、最重症症例を機械学習に委ねたAIに任せる日が来るか?

 

僕は来ないんじゃないかと思う。

 

じゃあ、”鈍”な症例ばかり任せれば良いのではないか?

 

では、その簡単な症例の中で培うべきだった医師達のトータルコーディネート力は?

 

そして、そういった経験の蓄積が重症症例の管理を支えるのだとしたら、誰が重症症例みるのか?

 

AIも診れない。診れる人の数は先細りする。

 

こういった話は、「最高レベルに優秀なAIが運転する飛行機に乗るか?」という内容に置き換えることができると思う。

 

どんなに相当数テストを受け安全だと保証されたとしても、恐らく信頼を勝ち取ることは難しいのではないか。

 

結局人間は感情の生き物であり、こと命や健康に関することは別次元にあって、AIの精度や対する信頼は上限がありそうだ。

 

話はそれてしまったが、結局「AIが医者の特異性を下げる」という内容〜言い換えれば世間で囁かれる「AIが医者の仕事を奪う」という内容〜は、これまた極論だと思う。

 

いずれの領域でも"鈍"な姿勢で望んでいる人にとっては、もしかしたらその人達限定に、その層にだけ特異性は下げるのかもしれないが・・・。

 

そうならないように気をつけたい。

 

 

結論

 

結論、AIにせよコメディカルにせよ、医者の仕事を実施できるのかできないのかという話と医者の特異性に関してはそこまであんまり関係ない。

 

結局、AIもコメディカルもあくまで”サポート”に過ぎない、と思う。

 

それ以上になり得ないし、それ以上を社会側も求めていない(責任的に)。

 

とはいえ、"鈍"な姿勢でばかりいると、まずいのかもしれない。

 

"鈍"な姿勢でいようとすること自体が、医者の特異性を下げ、なおかつ魅力や仕事の楽しさすら落としてしまう可能性がある・・・。

 

 

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